スマートフォンが普及して、誰でも音楽をつくり、写真を撮り、動画を編集できる時代になりました。総務省の調査では、2023年時点での日本のスマートフォン世帯保有率は90.6%。この変化を「民主化」と呼ぶ声は多く、それ自体は間違いではないと思っています。
ただ、門戸が開くことと、技術が身につくことは、別の話です。
技術の蓄積なしに「それらしい形」だけを模倣したコンテンツが大量に流通し、それが淘汰される仕組みを持たないまま情報空間を埋め尽くしていく。Googleは2025年1月改定の品質評価ガイドラインで、AIなどの自動生成ツールによるコンテンツを「見かけはオリジナルでも、実質的に価値が伴っていない」と位置づけ、最低評価の対象にすることを明確にしました。外形的に整っていることと、本質的な価値を持つことは、まったく別の話なのだと、あらためて感じさせられます。
では、技術の「本質」とはどこに宿るのでしょうか。
哲学者マイケル・ポランニーは、人間の知を「形式知」と「暗黙知」に分けました。形式知は言葉や図表で説明できる知識。暗黙知は、長年の経験と反復によって身体に宿る、言語化できない知識です。彼はこう述べています。「我々は語ることができるより多くのことを知ることができる」と。
自転車の乗り方を完璧に言葉で説明できる人はいません。それでも、一度身につけると生涯忘れない。技術書には書いていない、書けない領域——それが暗黙知です。音楽録音の現場で言えば、マイクをどこに置くか、空間の響きをどう読むか、演奏者の呼吸をどのタイミングで捉えるか。その判断は、膨大な反復と失敗の積み重ねの末に、ようやく身体に刻まれるものです。
社会学者のリチャード・セネットは、著書『クラフツマン——作ることは考えることである』の中で、こう言っています。職人の技術は、そもそも言語化できないものであり、それは言語そのものの限界なのだ、と。バイオリンの名器ストラディヴァリウスが名器であり続けた理由も、天才にしか認識できず伝承もできなかった暗黙知にこそ権威が宿っていたからだ、と。
作ることは、考えることである。この言葉の重さを、いまあらためて噛みしめています。
そしてAIについて、ひとつ問いたいことがあります。
AIは「人間の補完」と言われることが多いですね。でも実態としては、人工知能の設計思想の根底にあるのは、人間の脳機能の「模倣」です。内閣府の公式報告書でさえ、補完と代替のあいだには語感ほどの差はないと認めています。AIが届けられるのは、人間が言語化・データ化した範囲での再現にすぎません。暗黙知の領域——身体に宿った技術の本質——には、原理的に届かないのです。
だからこそ、蓄積のある人間がAIという道具をどう使うかに、本質的な価値が生まれる。逆に言えば、蓄積のない人間がAIを使っても、外形だけが整ったものが量産されるだけです。
もうひとつ、大切だと思っていることを書かせてください。
「原爆の父」と呼ばれた物理学者オッペンハイマーは、マンハッタン計画を主導した後、自らが生み出した技術の前に深く苦悩しました。「物理学者は罪を知った」という言葉を残しています。科学史家の伊藤憲二はこう指摘しています。「科学者がどう振る舞うべきか教えてくれる倫理体系は無かったし、ある意味、今でも無い」と。この言葉は、現在のAI開発が置かれた状況と、構造的に重なります。
ユネスコは2021年11月、193加盟国全会一致でAI倫理勧告を採択しました。その中でこう述べられています。「世界は、6世紀前に印刷機が導入されて以来のペースで変化しようとしている。倫理的なガードレールがなければ、現実世界の偏見や差別を再現し、基本的人権と自由を脅かす危険性がある」と。
核開発がそうであったように、AI開発も今や、人間的・人道的な観点から語られなければならない段階にきていると、私たちは考えています。技術の進歩に倫理の議論が追いつかない——その構造的な遅延は、文化や表現の領域にも、確実に影を落としています。
技術は誰のものか。
身体で習得した者のものです。その習得に、近道はありません。うまくいかない経験の積み重ね、思い通りにならない失敗の連続、そのひとつひとつが身体に刻まれていくことで、言葉にならない判断力が育まれていく。AIはその過程を、代わりに歩んでくれません。
外形的に整ったものが大量に流通する時代だからこそ、身体知を積み上げることの意味は、むしろ増していると感じています。
私たちは音楽制作の現場から、この問いに向き合い続けています。