時代を翻訳する映画―『よみ芝居』に見る記憶の再構築

『よみ芝居』――
その名が示す通り、この映画は「読むように観る」作品でした。スクリーンの上で語られるのは、単なる回想でも夢想でもない。70歳の石橋良文が、人生の終盤に差しかかりながら、15歳の自分と再会する。そこに広がるのは、廃工場の錆びた空間がゆっくりと変貌していく、かつての九龍街や昭和のスラム街。少年時代に見た光景と、そこに生きた人々の熱と痛みが、現実と幻のあわいで溶け合っていくのです。

監督は戴雨林(Urin Tai)。東アジアという地続きの文化圏から、日本語を主軸にした物語を描きながらも、決して“日本映画”という枠には収まりません。むしろ、私たちが無意識に抱え込んでしまっている「日本的なるもの」という観念を、静かに、しかし確実に再定義していく力を持っています。

そこにあるのは、時代の翻訳です。
1960年代の昭和が抱えていた貧しさや情念、夢や欺瞞が、2025年の現在にもう一度呼び戻され、確信的に再配置されていく. 革命、理想、愛、欲望──それらは過去の語彙ではなく、現代を生きる私たちの身体のどこかにまだ残っている響きとして蘇る。映画の中の人物たちは、まるでそれぞれの時代の「代弁者」として現れ、観る者の中に眠る記憶を呼び起こします。

私がこの作品に強く共感したのは、その“翻訳”の仕方にあります。

古い価値を壊して新しいものを築くという単純な構図ではなく、時代の層を丹念に掘り起こし、忘れられた声や風景を、まるで再生音のように浮かび上がらせている。その手つきは、文化の「継承」と「再定義」のあいだをたゆたうようで、そこに私は、自分が掲げてきたテーマと同じ呼吸を感じました。

工場跡地の描写が、いつの間にか九龍の裏路地へと変わる瞬間。
少年と老人が、錯覚と倒錯のなか対峙する様。
その映像の連なりは、記憶の再生というよりも、現代日本の文化背景そのものの「再構築」に近い。
生と死の境目、現実と虚構の境目を、まるで編集点のように繋ぎ直す。そこに、東アジアの現代映画が進もうとしている新しい地平が見える気がしました。

この映画は、懐古でも、ノスタルジーでもありません。
それは「再び語り直す」ための芝居であり、演じ直しの中に時代の矛盾を置き直す試みです。

ゆうばり国際ファンタスティック思い出映画祭の小さな会場でこの作品を観た時、私は、まるで遠い時代の記憶が現代の空気に変換されていくのを感じました。

時代を翻訳するとは、過去を美化することではなく、現在の言葉で過去をもう一度理解し直すこと。
『よみ芝居』はまさにその行為の集積でした。

そして、その“翻訳”の作業こそが、これからのアジア映画、ひいては表現芸術全体に求められる姿勢なのかもしれません。