優しさとタフさ

九月の初め、空の青さはどこか遠く、まだ夏の名残を抱えながらも、虫の音は早くも秋を告げています。商店街を渡る風に、蝉の声がかすかに混じります。その響きに、あの八〇年代の熱気と影の濃さを思い出すのは、齢を重ねた者の癖なのかもしれません。

「男はタフでなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない。」
角川映画のキャッチコピーとして耳に焼きついたあの言葉は、私の世代にとって避けがたい呪文のようなものでした。強さを持てと誰もが言い、男である以上は、まず力で時代を押し返さなければならないと信じていました。優しさとは、そのあとにようやく許される小さな贅沢のようなものだったのです。

しかし今はどうでしょうか。
SNSの文字の奔流に身を置くと、強さを誇示する人ほど孤立しやすく、むしろ人を受けとめる優しさを示す人のほうが長く関係を結び続けています。強さは防御の手立てであるよりも、優しさを守るための器のように思えます。時代は順番を逆さにしたのです。

八〇年代、松田優作さんの鋭い眼差しは、男たちの憧れであり、恐れでもありました。あの頃はまだ、体格や声の低さや、社会での肩書きに「男らしさ」が宿ると信じられていたのでしょう。けれども四半世紀を超えて時が流れ、私たちが向き合う社会は、肉体や肩書きでは測れぬものばかりを突きつけてきます。透明さ、誠実さ、共感。そうした目に見えぬ基準が、いつのまにか生きる資格にすり替わってしまいました。

この変化は決して悪いことではありません。しかし、どこか不安を覚えるのもまた事実です。優しさを前提とした社会は美しい響きを持ちますが、裏を返せば少しの無理解や不注意で排斥されやすいということでもあります。人は優しくあろうとして、時に息苦しくもなります。だからこそ、優しさを支える「タフさ」が欠かせないのだと思います。批判や冷笑を受けても折れない心。情報の洪水に呑まれても流されぬ芯。八〇年代の「タフ」とは形を変えながらも、今なお必要とされているのです。

本を扱う仕事をしていますと、人の手から手へと渡る物語の匂いを嗅ぎ取ることがあります。古書のページをめくると、そこに書かれた言葉の強さと、挟まれたメモや書き込みの優しさが共に息づいているのを感じます。強さだけでは文字は残りません。優しさだけでも紙は風化してしまいます。両者が寄り添って、ようやく物語は時を越えるのでしょう。

時代は変わりました。けれど、私たちの胸の奥には、あの角川映画のコピーが今も静かに響いています。優しさを先に求めるようになった社会にあっても、強さは決して消えてはいません。むしろその順番が入れ替わったからこそ、両者はより密接に結びついたのかもしれません。

男であるかどうかに関わらず、人は優しくなければ生きていけません。ですが、その優しさを守るために、やはりタフでなければならないのだと思います。
夜の帳が下りる言ノ葉堂の片隅で、古びた背表紙を撫でながら、私はそんなことを考えています。結論など出す必要はありません。ただ、風に揺れる暖簾の向こうに、虫の声を聴きながら。