沈黙の接客、むき出しの本
秋風が夜更けの窓を細く鳴らす頃になると、書棚に眠る古い紙の匂いがいつもより濃く立ちのぼってきます。虫の声と混ざり合い、どこかで落葉の気配がする夜更けに、私は机に向かいながら、この仕事に流れる長い時間のことを思い返します。
古本屋というと、どうしても「無愛想な店主」という定番の像がつきまといます。漫画にも小説にも、口数少なく、客の挨拶にも応えず、まるで本にしか心を開かない人物として描かれてきました。けれど私の実感からすると、それは一面の真実にすぎません。名古屋の古書組合に身を置き、全国の仲間たちと総会で語らい合ううちに気づいたのは、その像がむしろ少数派だということです。多くの店主は穏やかで、静かに誠実に、日々の棚と客と向き合っています。
むしろ違いを生み出すのは地域性です。たとえば関東の古書店では、良書をパラフィン紙で包み、長期保存に耐える工夫をする姿をよく見かけます。研究者や蒐集家の街にふさわしい慎みと技です。関西の古書店に入れば、書物は透明なビニールカバーで美しく装われています。商人の街らしい見栄えの良さと、客に向けた明るさがそこにあります。そして私が暮らす名古屋では、本は驚くほどむき出しのまま並べられる。貸本文化の影響でしょうか、「本の価値は文字の内にある」という考えが自然に染み込んでいるように思われます。
この土地では、店主もまた職人に似ています。大阪が商売人、関東が研究者だとすれば、中京は職人。背筋を伸ばし、余計な言葉は要らず、ただ一冊を正しく扱う。そのような気風に触れるたび、私は本を媒介にした土地の気質に頷かされます。
けれど、その職人たちの多くが、当代限りで店を閉じようとしています。後継を望む子や弟子は少なく、倉庫代や人件費は膨らみ、残された在庫は山と積まれる。誰もが抱えている事情は似たり寄ったりで、諦めに近い感情を互いに隠すこともなく語り合います。古書まつりの準備を手伝うとき、あの無骨な手が棚を支える姿に、私は不意に時の重みを見てしまうのです。
無愛想に見えるのは、ただ本を守りたい一心なのだと、私は思います。返品できない一点ものだから、客の乱暴な手つきに眉をひそめる。値段を聞かれ、ネットとの比較を突きつけられれば、心のどこかで自分の目利きを否定されたように感じてしまう。それは決して愛想の欠如ではなく、職人の矜持に近いものです。
沈黙の接客は、客を突き放すための壁ではありません。本と人とが出会うための余白であり、無言のうちに託された信頼の空気なのです。むき出しの本の隣に、むき出しのままの店主の心が置かれている。それが名古屋の、そして日本各地の古書店のありようなのだと私は信じています。
しかし、風は移ろいます。街の景色も、客の気質も、やがては変わるでしょう。秋の夜に虫の音が夏の蝉に取って代わるように、古書店もまた世代の交代を避けられません。沈黙の接客を理解する人が減り、むき出しの本の価値を見極める目が薄れていくとき、ひとつの文化が静かに幕を閉じていくのかもしれません。
それでも今宵、私は店の片隅で一冊を手に取り、その紙の手触りに耳を澄ませています。職人の街に生きる者として、本の中にある言葉を信じたい。その信じる心こそが、たとえ明日店を閉じる日が来ても、私をこの仕事に結びとめているのです。