夜、店の入り口ドアにかけてある日除けを下ろし、帳場の灯りだけを残して椅子に腰を下ろします。
一日の埃を払うように、スマートフォンを手に取ると、そこには今日も同じ言葉が流れてきます。
本屋がなくなって寂しい。文化を守らなければならない。
長く続いた店が閉じたことを惜しむ写真や、短い感想が、いくつも並んでいます。
それらを眺めながら、私はいつも、うまく言葉にできない違和感を覚えます。
その気持ちが冷たいのか、意地が悪いのか、自分でもよく分かりません。ただ、胸の奥に小さな棘のようなものが残り、素通りできないのです。
今夜は、その違和感がどこから来るのか、少しだけ辿ってみようと思います。
そもそも、本屋の主役は何でしょうか。
建物でしょうか。棚でしょうか。並べ方でしょうか。
私はどうしても、そうは思えません。
主役は、あくまで本であり、さらに言えば、その本に書かれた内容であり、著者がそこに託した言葉だと思っています。
良い本か悪い本か、という単純な価値判断も、本来はそこまで重要ではありません。
ある時、ある人にとって必要な本があり、それを必要とする人が手に取る。必要だから買う。それだけの、静かな関係が本の本質ではないでしょうか。
たとえば、村上春樹の新作を読みたいと思ったとします。それを町の本屋で買うのか、インターネットで買うのか。その違いは、入手の経路でしかありません。
きらびやかな書店だから、その場所で買いたい、という感情は、決して主役ではない。読みたい本があり、情報があり、手に入る。
新刊書籍に関して言えば、流通や陳列は、すでに本質からかなり離れたところにあるように思えます。
立ち読みができる。背表紙が見える。ページの一部が覗ける。ポップの言葉が目に入る。それらは今や、ほとんど同じ形で、インターネット上に置き換えられています。
物理的に触れるか触れないか、その違いは残っていますが、購入という行為の構造自体は、ほとんど変わっていません。
それでも「本屋で買う体験」に価値があると言うならば、その体験を成立させるためには、膨大な数の本を仕入れ、並べ、維持し続ける必要があります。
そして、そのコストを支えられるだけの人が、そこに足を運ばなければならない。2026年の今、その構造がすでに限界に近いことは、誰の目にも明らかでしょう。
ここで、少し視点をずらしてみます。本を、CDやレコードに置き換えて考えてみるのです。
今この時代に、CD屋を始めようとする人は、そう多くありません。もしCD屋が街から消えていったとしても、多くの人は、どこかで納得しているように見えます。そこには理由があります。
CDは、製造や流通の仕組みそのものが縮小し、工場もプレスも次々と姿を消してきました。一方で、音楽家にとっての収益は、ライブ会場での物販という形で、別の場所に移っています。中間に挟まる構造が減り、むしろそれを望む声すらある。ここが、新刊書店と決定的に異なるところです。
レコード屋を始める人がいるとしたら、それは相当の覚悟と知識と目論見を持った人でしょう。縮小した市場で、なお続ける理由を、自分の中にきちんと持っている。
ところが、本の世界ではどうでしょうか。
街の文化のために。本が好きだから。一箱古本市の延長のような感覚で店を構え、資金はクラウドファンディングで集める。そして、現実の重さに耐えきれず、静かに姿を消す。
そうした光景を、私は何度も見てきました。本屋は、体力も気力も持続力も要ります。新刊は利益が薄い。そんなことは、最初から分かっているはずなのに、夢だけが先に立ってしまう。そこに、どうしても拭えない違和感があります。
では、本屋の本質はどこにあるのでしょうか。
新刊書店であれ、古本屋であれ、私が思うに、その核心は棚に並ぶ本の背表紙です。
著者が何かを伝えたくて書いた言葉。編集者と向き合いながら形にした一冊。それが流通を経て、本屋の棚に立つ。平積みのベストセラーは、すでに情報が先に走っていて、想像力が入り込む余地はあまりありません。けれど、背表紙だけが並ぶ棚には、まだ名前のついていない入口が無数にあります。
タイトル。装丁の色。知らない名前。
それらが一瞬、視界に引っかかり、思考が横にずれる。その小さな事故のような瞬間こそが、本屋の持つ力だと思っています。
私は、書店員が神格化され、その人の棚が信仰の対象になる文化が、どうしても好きになれません。それは、今のインターネットのおすすめ機能と、本質的には同じだからです。誰かの意図や、資本や、評価の構造が、思考の入口を狭めていく。
本は、あいうえお順に並んでいるだけでいい。作家別に整然と立っているだけで、十分に偶然性は生まれます。むしろ「おすすめ」という言葉で括った瞬間、その可能性は急激に痩せていくように感じます。
新刊書店がなくなることの問題は、売上でも、店舗数でもありません。偶然に知が開く場が、少しずつ失われていくこと。私が関心を持っているのは、ほとんどその一点だけです。
盛岡にある、ある新刊書店のことを思い浮かべます。派手ではないけれど、その土地の人と、静かに本を共有している。昔ほどの勢いはなくとも、立つべき場所に立っている。そうした店は、確かに存在します。
それでも、その役割を、今残っている新刊書店だけに背負わせるのは、あまりにも酷でしょう。流通も含めた、もっと大きな仕組みの話になってしまいます。今夜の私には、そこまで考えきる力は残っていません。
帳場の灯りを落とし、店内に静けさが戻ります。
棚に並ぶ背表紙は、何も語りません。ただ、そこに在るだけです。
私はその沈黙に、今も、少しだけ救われています。