おだづなよ、という声

キラキラとした言葉や、華やかな都会の生活に、私は確かに憧れていました。
それは子どもながらに、雑誌やテレビの向こう側にある、別の世界の光だったのだと思います。

私は三陸の小さな漁村で育ちました。
潮の匂いと風の音が日常で、都会的な生活とは、どう考えても交わらない毎日です。
今振り返れば、それはそれで得難い原体験だったと言えますが、当時の私は、この小さな街を出て、何かを掴み、何者かになり、何かを実現しなければならないと、本気で思っていました。

岩手県人と聞いて、多くの人が思い浮かぶイメージがあります。
宮沢賢治さんに象徴される、優しく、思慮深く、内省的な人物像。
それは盛岡から花巻にかけての、南部藩的な文化圏から導き出された像だと思います。

しかし、沿岸南部は少し違います。
我が強く、気が短く、喧嘩早く、そして何よりプライドが高い。
海と向き合って生きてきた土地の気質は、穏やかさよりも、荒々しさを内包しています。

釜石は特に、独特な空気を持った街でした。
製鉄所の存在によって、日本全国から人が集まり、さまざまな文化がぶつかり合う。
その衝突が、街全体に独特の緊張感と雑多さを生んでいたように思います。

七〇年代になっても、釜石から名古屋圏、東海市の製鉄所へ移動する人は少なからずいました。
私が住んでいた鵜住居でも、転出と転入は珍しいことではなく、人の出入りが多い土地でした。

そうした中で、私の小学校時代の初恋の相手は、名古屋から来た転校生でした。
今まで聞いたことのない、流暢で柔らかなイントネーション。
こちらでは見たことのない、整った色合いの服。
その佇まいそのものが、都会の風をまとっているように見えたことを、今でも覚えています。

浜言葉の方言に〈おだづ〉という言葉があります。
ふざける、という意味で説明されることが多いのですが、実際にはもう少し強い。
調子に乗る、身の丈を越えてはしゃぐ、そんなニュアンスを含んだ言葉です。

漁村の地元民は、製鉄所関係者の方々のように、一時的にこの土地に身を置く人たちを、どこか複雑な目で見ていました。
憧れがないわけではない。
しかし同時に、徹底的に距離を取る、冷たい視線も確かにあったように思います。

「あいつらのように、おだづなよ」

浜生まれで気の短い高校教師だった父が、ある日、強い口調で私にそう言いました。
町で何か諍いがあったのか、その理由は分かりません。
けれど、その一言は、不思議なほど鮮明に、今も胸の奥に残っています。

華美で、都会的で、キラキラとしたもの。
私はそれらに、強い憧れと、同じくらいの嫌悪感を同時に抱いています。
二つの感情が交互に顔を出すため、心の中はいつも少し厄介です。

田舎者が都会に憧れ、同時に都会を警戒し、距離を測る。
その心の動きは、私にはよく分かります。

今は調子に乗っていても、いつか必ず落ちる。
もてはやされる時間があっても、必ず反動が来る。

目立ってはいけない。
調子に乗ってはいけない。
常に謙虚でなければならない。

そんな考え方が嫌で、私は田舎を飛び出したはずでした。
それなのに、気がつけば、私は今、まったく同じことを自分に言い聞かせいています。

田舎者が都会で生きていくためには、〈おだって〉はいけない。
その言葉は、戒めであると同時に、生き延びるための知恵でもあったのだと思います。

キラキラした光に目を奪われすぎず、
かといって、すべてを否定するわけでもなく、
自分の足元の温度を確かめながら、静かに歩く。

父の声は、今も時折、胸の奥で響きます。
「おだづなよ」と。
それは、都会に抗う言葉ではなく、自分を見失わないための、静かな注意喚起なのかもしれません。