エッセイ
資本の外で生きるということ
古本屋を始めて、もう何年になるでしょうか。コロナ禍の前から、私は熱田神宮の参道の片隅で、誰かが手放した本を、また別の誰かに手渡す仕事をしております。この仕事には、資本というものがほとんど介在しません。仕入れは一冊数百円、売値もまた数百円から数千円。回転する金額は小さく、拡大再生産という言葉とは無縁の場所にあります。
そのことに、私は長らく引け目のようなものを感じていなかったかと言えば、嘘になります。効率化、スケール、成長——そうした言葉が経済のあらゆる場面で正義として語られる時代に、一冊一冊を手に取り、値をつけ、棚に置くという作業は、どこか時代から取り残された営みのようにも見えました。しかし、ある時期から、この「取り残され方」こそが、ひとつの方法論なのではないかと考えるようになりました。
大資本の外側にある論理
大資本の運動原理は単純です。同じ労力で、より多くを、より速く、より広く。この原理に従う限り、人もまた資本の運動に合わせて自らを最適化することを求められます。処理速度、判断の速さ、情報を扱う巧拙——つまり「賢さ」が、資本の側から評価される指標になっていきます。
古本屋という商いには、この最適化の圧力がほとんど働きません。一冊の本の価値は、その本が誰の手を経てきたか、どんな時代の空気を纏っているか、次にどんな読み手の元へ行くべきか、という個別の文脈のなかでしか決まりません。これはスケールしないものです。スケールしないということは、資本主義の物差しでは失格の烙印を押されるということでもあります。
けれども、この「スケールしない」という性質こそが、実は人を賢愚の物差しから解放してくれます。本の値付けに必要なのは、情報処理の速さではなく、その本と自分との間に流れる時間の質です。速い者が勝つのではなく、遅くいられる者が続けられるのです。
「愚」を選び直す
前に申し上げたことと繋げるならば、これは「賢さ」を否定する話ではありません。賢さという能力それ自体を否定しても、何も自由にはならないからです。そうではなく、賢さが資本に接続されて序列を作る、その配線を一度断ち切ってみるということです。
老子の言う「大巧は拙なるが若し」——本当に巧みなものは、一見すると拙く見えるという意味です。古本屋の商いは、まさにそれに近いところがあります。効率で測れば拙く見えるでしょう。しかし、そこには別の巧みさがあります。急がないことの巧みさ、値をつけずに保留する巧みさ、売れなくても棚に置き続ける巧みさ。これらは資本主義の会計には決して現れない種類の技術です。
賢愚にかかわらず生きるというのは、この「別の巧みさ」を、自分の生活の中に持てるかどうかという話なのだと思います。頭の回転の速さで評価されなくてよい場所を、自分の手で作れるかどうか、ということでしょう。
資本の外に、もう一つの経済を
私は今、レコーディングスタジオの経営を後継者に譲ろうとしております。その先も続けていくのは、この古本屋の方です。それは単なる事業の取捨選択ではなく、どちらの論理で生きていくかという選択でもありました。スタジオの仕事には、機材投資、稼働率、顧客単価という、資本主義的な計算がどうしても残ります。古本屋には、それがほとんどありません。
行き過ぎた資本主義への対抗は、声高な批判や運動としてではなく、こうした小さな商いを一つ、生活の中に持ち続けることでも成立するのではないでしょうか。大きな理論やイデオロギーを掲げなくても、値のつけ方、時間の使い方、誰に何を手渡すかという日々の判断の中に、資本の論理とは別の論理を混ぜ込んでおくこと。それは静かな抵抗であり、同時に、賢愚の物差しから自分自身を解き放つための、もっとも具体的な方法でもあると思います。
答えを急がずに、この商いを続けていくこと。それ自体が、すでに一つの論なのだと思います。