エッセイ
釈台なき講釈師
テレビの前に座っていた、もうひとりの講談師について
一
子供の頃に見ていたアニメを、大人になってから見返すと、奇妙なことが起こります。当時はまったく気づかなかった手つきが、不意に浮かび上がってくるのです。物語の中身ではありません。物語の運ばれ方、語られ方、その底に流れている拍子のようなもの。
タツノコプロの作品を見返していて、私はある晩、はっきりとそれを感じました。これは講談だ、と。
画面には無国籍風の派手なキャラクターが動いています。敵は毎回三人組で、毎回同じように吹き飛ばされます。どこにも和の意匠はありません。にもかかわらず、耳が拾っているのは、まぎれもなく講釈師の呼吸でした。張扇こそ鳴りませんが、あの、物語を叩きながら進めていく独特の間。誰かが釈台の前に座っている気配。
では、タツノコの誰かが講談を学んだのか。そう思って調べはじめたのですが、これがなかなか出てこないのです。制作者たちが寄席や講釈師について語った記録は、私が確認できた範囲には見当たりませんでした。影響関係を裏づける直接の証言は、どうやら残っていない。
ふつうなら、ここで話は終わります。影響は確認できませんでした、と。けれど、証拠がないことと関係がないことは、同じではありません。むしろ私は、証拠が出てこないことのほうにこそ、事の本質があるのではないかと考えるようになりました。問いを立て直す必要があります。誰が誰から学んだのか、ではなく——なぜ、これほど似てしまったのか。
二
事情を理解するには、まず一人の男の来歴を辿らなければなりません。吉田竜夫。タツノコプロを興し、その顔立ちを決定づけた人物です。
1932年、京都に生まれています。戦争が終わってまもなく両親を失い、身を立てる術は絵しかありませんでした。学校で学んだわけではありません。新聞や雑誌の挿絵を描き、そして紙芝居の下絵を描いた。焼け跡の日本で、絵筆一本を頼りに食いつないだ青年です。やがて上京し、絵物語作家として世に出ていきます。
この「紙芝居の下絵」と「絵物語」という二つの仕事を、私はしばらく見つめていました。
紙芝居というものを、いまの私たちは牧歌的な思い出のなかに畳み込んでしまっています。自転車でやってくる水飴のおじさん、木枠の舞台、めくられていく絵。けれど、あれは芸能です。演者が絵を一枚ずつ差し替えながら、声色を使い分け、間を計り、子供たちを物語のなかへ引きずり込んでいく。絵は主役ではありません。語りの伴奏です。絵だけを取り出しても物語は動かない。声が乗ってはじめて、絵は息を吹き返す。
絵物語もまた、絵と語りが二人三脚で進む形式でした。一枚の絵の下に、講釈のような地の文が流れる。読者は文字を追いながら、頭のなかでその物語を「語られるもの」として受け取る。つまり吉田竜夫は、キャリアのいちばん最初のところで、二度までも「語られるための絵」を描いていた。自立した一枚ではなく、口演に奉仕する一枚。この身体の記憶は、そう簡単に抜けるものではありません。のちに彼が作るアニメーションが、なぜあれほど「語り」を必要としたのか。その根が、ここにあるように思えてなりません。
そして、彼が繰り返し手を伸ばしたモチーフを見てください。忍者です。出世作は『少年忍者部隊月光』。タツノコ初期の代表作は『科学忍者隊ガッチャマン』。忍者、忍者、また忍者。
この忍者という主題こそが、講談の血脈そのものなのです。
猿飛佐助。霧隠才蔵。真田十勇士。——私たちが忍者と聞いて思い浮かべる顔ぶれは、そのほとんどが「立川文庫」という書き講談のシリーズが生み出した創作でした。真田主従の物語はもともと講談のヒーローとして語られ、それが大正の初めに立川文庫としてまとめられ、実在したかどうかも定かでない忍術使いたちを、あたかも歴史上の人物であるかのように少年たちの記憶へ刻み込んだ。忍者という存在の輪郭は、講釈師の口と、その口を写した活字が作ったのです。
書き講談とは何か。もとをたどれば、1884年に三遊亭円朝の『牡丹灯籠』の速記本が売れたことに始まります。話芸を文字に写すという発明が当たり、講談の速記本が飛ぶように売れ、やがて口述に似せて書き下ろす「書き講談」が生まれた。その市場のうえに、近代日本の少年雑誌文化は立ち上がっています。講談社という社名が、何より雄弁にそれを物語ります。1911年、この出版社は『講談倶楽部』という一誌とともに、その名を名乗りはじめました。講談の、社。近代の少年たちが胸を躍らせた雑誌の、その最初の一滴は、講釈師の口から流れ出ていたのです。
吉田竜夫は、生の講談を聴いて育った世代ではありません。彼が浴びたのは、講談が速記され、活字になり、挿絵をまとい、紙芝居の絵となって焼け跡を巡った、その後の姿です。それでも、忍者という主題を選ぶとき、彼は知らぬまに講釈師の水脈へ手を差し入れていた。
余談をひとつ。タツノコプロが草創期の証言をまとめて残した本、『タツノコプロインサイダーズ』は、講談社から出ています。因果関係は何もありません。ただの偶然です。けれど、ここまで系譜を辿ってきた目には、その偶然が、いささか出来すぎた符合として映るのを止められません。
三
さて、系譜が繋がっていることと、作品が講談に似ていることは、まだ別の話です。血筋が同じでも、顔が似るとはかぎらない。では、具体的に何が似ているのか。ここからは、耳を澄ませる作業になります。
まず知っておきたいことがあります。講談師は、自分の芸を「語る」とは言いません。「読む」と言うのです。釈台の上にはかつて本が置かれ、演者はその物語を、あくまで外側から読み上げる者として振る舞ってきました。落語家が登場人物になりきってセリフを演じ分けるのに対し、講談師はストーリーテラーの位置を崩さず、地の文で物語を運ぶ。物語の外にいる、という意識が、この「読む」という一語に宿っています。
その講釈師は、けれど完全な傍観者ではありません。張扇を叩き、話に合いの手を入れ、時に登場人物の愚かさを笑い、時にその健気さに涙する。物語の外に座りながら、上半身だけを物語のなかへ乗り出している。この、外でもあり内でもある宙吊りの位置。ここが講談という芸の勘所です。
『ヤッターマン』の、あの「説明しよう!」を思い出してください。
1977年、富山敬の声で世に放たれたこの前口上を、単なるナレーションだと思っている人は、たぶん本当のところを見ていません。あれは説明ではないのです。いや、説明のふりをした、参加です。このナレーターは正義の味方をあからさまにえこひいきし、悪玉トリオのドロンボーをこき下ろす。かと思えば悪役たちから説明を頼まれると律儀に礼を言い、ドロンジョからは「富山敬ちゃん」と、声優の実名そのままで呼びかけられる。語り手が、いつのまにか舞台の上に半身を乗せている。物語の外から読み上げながら、その世界に片足を突っ込んでいる。これはまさに、釈台の前の講釈師の立ち位置そのものです。釈台は画面のどこにもない。けれど、講釈師は確かに、そこに座っています。
もうひとつ、悪役の名乗りについて。
ここで歌舞伎の『白浪五人男』を持ち出さなければなりません。桜咲く稲瀬川の土手で、五人の盗賊が捕手に囲まれながら、一人ずつ朗々と名を告げていく、あの名高い勢揃いの場です。鎌倉の地名を掛詞に織り込んだ七五調の連ね、見得を切りながらの渡り台詞。悪党が、うっとりするような美文で己の来歴を語る。観客は、正義の側ではなく、盗賊の口上に酔いしれる。
面白いのは、この「盗賊を主役に据える」という趣向そのものの出どころです。幕末、二代目松林伯円という講釈師が、鼠小僧をはじめとする盗賊ものの講談で人気を博し、「泥棒伯円」の異名をとった。その伯円の講談に目をつけた黙阿弥が、次々と歌舞伎へ脚色していった。これが歌舞伎における白浪物、すなわち盗賊を主人公とする一連の作品の興りです。悪党を舞台の中心に押し上げ、その名乗りを見せ場に変えるという快楽の源には、釈台の上の講釈師がいた。名乗りの様式そのものは歌舞伎が磨いたものですが、悪を主役にするという発想の種は、講談が蒔いたのです。
この稲瀬川の勢揃いは、のちに『秘密戦隊ゴレンジャー』をはじめとする戦隊ヒーローの名乗りへと受け継がれた、としばしば語られます。正義の側の勢揃いへ。けれど私は、もう一つの流れがあるように思えてなりません。悪の側の系譜です。毎回あらわれ、毎回その悪をひとしきり誇示してみせる三人組。タツノコの三悪が観客にもたらすのは、まさに「悪党の口上を待ちわびる」という、あの倒錯した快楽ではないでしょうか。これは文献に裏づけられた継承ではなく、私の耳が勝手に嗅ぎ取った匂いにすぎません。けれど、伯円から黙阿弥へ流れた血の、片割れがここにも届いているような気がするのです。
そして三つめ、反復について。
講談は続き物です。毎回、同じところで話を切り、翌日また同じ調子で入る。ちょうど良いところで「この続きはまた次回」と切り上げる、その切れ場の呼吸。聴衆は筋を先刻承知している。それでも通う。いや、知っているからこそ通う。知っている見せ場が、寸分たがわぬ型どおりにやってくる、その安心と快感のために。連続ドラマの元祖は、実はこの講談だと言われます。
タイムボカンシリーズが半世紀を越えて愛されているのも、突き詰めればこの一点です。毎回、世界はリセットされる。毎回、同じ手順で話は進む。毎回、同じ形で三悪はお仕置きを受け、空の彼方へ吹き飛ばされていく。物語が前へ進むことではなく、様式が寸分たがわず反復されることが、快楽の源泉になっている。これをテレビアニメの制作費の都合だと言ってしまうのは簡単です。けれど、同じ懐具合の制作会社は他にいくらでもあった。そのなかでこの反復を、様式美と呼べる高みにまで磨き上げたのは、タツノコでした。都合を、芸に変えてしまったのです。
四
ここで、私は「影響」という言葉を、そっと手放さなければなりません。
これまで積み上げてきたことは、影響関係の証明ではないからです。吉田竜夫が講釈師に弟子入りしたわけでも、講談の速記本を教科書にしたわけでもない。彼が浴びたのは、幾度も姿を変えたあとの、二次的な、三次的な講談でした。だから本人に自覚がない。学んだ覚えがないのに、身についてしまっている。
そして、ここが肝心なのですが——自覚がなかったからこそ、それは無傷のまま伝わったのではないでしょうか。
意識して受け継いだものは、意識して更新され、疑われ、批評され、いつしか原型をとどめないほど作り変えられていきます。継承とは、たいてい破壊を伴うものです。ところが、無自覚に受け渡されたものは、その手荒い洗礼をくぐらずに済む。誰も「これは講談だ」と気づかなかったからこそ、講談の骨格は、ほとんど原型のまま、昭和のブラウン管の内側へ滑り込むことができた。
講談は、こうして宿主を替えてきた芸能でした。もともとは『太平記』を読み上げる太平記読みから起こり、寄席の話芸となり、速記されて活字になり、書き講談として本になり、挿絵と紙芝居をまとって子供の前に立ち、そして知らぬまにテレビアニメの語りの骨格となった。器を替え、姿を変え、名を変えて、そのつど新しい体に乗り移っていく。名指されずに移っていくからこそ、骨格は擦り減らずに残る。これは滅びの話ではありません。むしろ、しぶとく生き延びる芸の、その生存戦略の話です。
五
もうひとつ、逆説を置いておきます。
タツノコプロは、日本でいちばん「日本らしくない」アニメーション制作会社として名を馳せてきました。輸出を意識した、原色で、肉づきのよい、彫りの深いキャラクター。どこの国とも知れない架空の都市。バタくさい、と評された造形。その原型は初期の『マッハGoGoGo』にすでに現れています。主人公の名を国際俳優にあやかって付け、車のハンドルを左に切り、舞台からいっさいの国籍を消し去ったこの作品は、やがて海を渡り、『スピード・レーサー』の題で本国以上の人気を得ました。日本のアニメだと知られないまま愛された、と言ってもいいほどに。
その、徹底して脱色された表層と、その奥深くにひっそり保存された話芸の骨格。相容れないはずのこの二つが、同じ制作現場のなかで、平然と同居している。
いや、こう言うべきなのかもしれません。表層をそこまで無国籍に塗り替えたからこそ、深層の講談は、誰にも「日本的だ」と名指されることなく、検問をすり抜けることができたのだ、と。無国籍という擬態が、いちばん古い日本を運んだ。外見を捨てることで、中身が遠くまで旅をした。海を渡ったスピード・レーサーの、そのハンドルの奥には、太平記読みから続く釈台の気配が畳み込まれていた。そう考えると、あのバタくさい車が、少し違って見えてきます。
六
ところで、その講談が、いま真正面から脚光を浴びています。
神田伯山。2020年、神田松之丞から六代目を襲名し、44年ぶりにこの大名跡を復活させた講釈師です。独演会のチケットは即完売し、「最もチケットが取れない講談師」と呼ばれる。彼の登場をきっかけに、明治以来とも言われるブームが講談界に訪れています。師匠の三代目神田松鯉は、講談師として二人目の人間国宝。長い連続物を根気強く継承してきたその蓄積の上に、弟子の活躍が花を咲かせました。かつては落語家の十分の一ほどまで細っていた講談師の数も、いまは七十名を越え、一時の危機は免れたと語られます。その半数を女性が占め、新作や創作も次々と生まれている。
ここで私が息を呑んだのは、伯山の甦り方でした。
彼は、講談を古い額縁のなかへ戻そうとはしませんでした。YouTubeに「神田伯山ティービィー」を開き、高座の映像を惜しみなく流し、寄席の楽屋を撮り、消えかけた「講釈場」という講談専用の小屋の復興までを夢に掲げている。話芸を、動く映像と声の側へ、もう一度差し出したのです。
これは、まったく同じ手口ではないでしょうか。
このエッセイでずっと辿ってきたのは、講談が印刷へ、絵へ、そしてテレビアニメの語りへと、宿主を替えながら生き延びてきた道筋でした。伯山がやっているのは、その現代版です。かつて講談が速記本という新技術に乗って広まり、紙芝居やアニメの声に姿を変えて生き延びたように、いま講談は、動画という新しい器へ自ら飛び込むことで甦った。話芸と映像は、この百年、たがいに宿主を貸し合ってきた。タツノコの「説明しよう」の内側に講談の骨格が眠っていたのと、伯山の講談が画面の向こうで甦っているのとは、同じ一つの流れの、表と裏なのです。
因縁めいた符合も、あります。伯山という大名跡を三代目まで大きくした講釈師は、その少年時代、二代目松林伯円の高座に胸を焦がし、講釈師の道を志したと伝わります。伯円——このエッセイの三章で、盗賊を主役に押し上げ、白浪物の種を蒔いた、あの泥棒伯円です。悪党の口上に観客を酔わせたその芸が、一人の少年を釈台の前へ引き寄せ、その少年が継いだ名が、百数十年を経て、いま講談復興の旗印になっている。私がタツノコの三悪に嗅ぎ取った匂いの、その大もとにいた人物と、現代のブームの中心にいる名前とが、細い一本の糸で結ばれていた。
釈台は、戻ってきました。張扇の音は、いま画面の向こうで、はっきりと鳴っています。そしてその同じ音は、思えばずっと、日曜夕方のアニメの内側でも鳴り続けていた。物語の外側から半身を乗り出して、誰かがこう語りかける声。器は変わっても、その一声だけは、百年、変わっていません。
——さあ、説明しよう。