論考

区分という権力

「オールドメディア」をめぐる構造的考察

目 次
  1. 1.恣意的な区分
  2. 2.注意を売る装置――メディア批判の系譜
  3. 3.ポストモダン思想の両義性
  4. 4.三つの層
  5. 参考文献

1.恣意的な区分

「オールドメディア」という言葉があります。新聞、テレビ、ラジオ、映画、レコード産業——インターネット以前に社会に根づいた、中央集権的な情報発信の機関を指す総称として、今日では広く流通しています。対義語として「ニューメディア」があり、SNS、動画配信、ポッドキャスト、個人ニュースレターといったデジタル的・双方向的な媒体がそこに分類されます。

しかしこの区分は、いつ、誰が定めたのでしょうか。

メディア研究者シモーネ・ナターレの調査によれば、「オールドメディア」という言葉が書物のなかで使われるようになったのは20世紀後半、インターネットが一般に普及しはじめた時期と重なります。単独で生まれた概念ではなく、「ニューメディア」という言葉が先に存在したからこそ、その対として召喚された語です。特定の発案者はおらず、比較のための補助線として自然発生的に定着しました。ナターレはさらに踏み込んで、「オールドメディアというものは実在しない」とさえ論じています。メディアは常に変化し続けるのであり、年代による固定的な定義には馴染まない——これが彼の主張の核心です。

この指摘は重要です。なぜなら、区分が恣意的であることを示しているからです。

では、なぜ恣意的な区分が流通し続けるのでしょうか。情報収集の実践において、「オールド」か「ニュー」かという軸は本来不要です。ある情報が信頼に足るかどうかを判断する際に必要なのは、一次資料か二次資料か、編集過程が透明か、裏づけがあるか、という問いです。媒体の新旧はそのいずれとも直接対応しません。それでもこの区分が生き続けているのは、情報を整理するためではなく、立場を整理するために機能しているからです。

「オールドメディアは権威的で信頼できる」と言いたい側も、「オールドメディアは古い権力に過ぎない」と言いたい側も、この区分を既に持っている結論の根拠として動員します。区分が先にあって価値判断が乗るのではなく、価値判断が先にあって区分が後付けで呼び出される——この逆転こそが、この言葉の本質的な性格です。

2.注意を売る装置――メディア批判の系譜

この構造を理論的に整理した系譜は、20世紀後半から一貫して積み上げられてきました。

出発点はフランクフルト学派です。ホルクハイマーとアドルノは1947年の『啓蒙の弁証法』において「文化産業」という概念を提起しました。文化そのものが工業製品と同じ論理で生産・流通・消費されるという構造の批判であり、メディアを「情報の伝達機関」としてではなく「資本による文化の均質化装置」として捉えた最初の体系的論考です。

これを引き継いだのがダラス・スマイスです。1977年、彼は問いを立てました——「メディアが売っているものは何か」。答えは「コンテンツではなく、視聴者そのものだ」というものでした。テレビや新聞の真の商品は広告主に販売される受け手の注意と時間であり、コンテンツはその集客装置に過ぎない。この「オーディエンス商品」論は、後のSNSビジネスモデルをほぼ正確に予言していました。

1988年、エドワード・ハーマンとノーム・チョムスキーは『同意の製造』において、マスメディアが体制を支持するプロパガンダ機能を果たす構造を「5つのフィルター」——所有構造、広告依存、情報源、批判への反撃、支配的イデオロギー——によって説明しました。報道機関が意図的に嘘をつくという話ではありません。メディアの経済的・組織的構造そのものが、権力に不都合な情報を構造的に排除するように設計されているという論です。このフィルターは現在も消えておらず、単に所有の形態がGoogle・Metaという新たな門番に移行し、広告の形態が監視資本主義というより侵襲的な様式をとっているだけだという指摘があります。

21世紀に入り、ニーボーグとポエルは「文化生産のプラットフォーム化」(2018年)において、経済的観点からこの移行を精緻に分析しました。オールドメディアが広告主と視聴者という二者間市場で動いていたのに対し、プラットフォームは広告主・コンテンツ制作者・利用者・データ購入者という多面的市場を同時に操作します。政治経済学者ニック・スルニチェクはこれを「プラットフォーム資本主義」と呼び、データという新たな原材料を基盤とした資本蓄積の新体制として定義しました。

これらの論を貫く一本の論理があります。メディアは情報を売っているのではなく、人間の注意・時間・行動データを資本として流通させる装置である。オールド/ニューという区分は、この構造の中で資本の形態が変化したことを示す記述に過ぎず、区分そのものが資本の論理の外に立っているわけではありません。

3.ポストモダン思想の両義性

ここでポストモダン思想との関係を整理する必要があります。

ポストモダン思想には大きく二つの軸があります。フーコー、デリダ、リオタールに代表される批判的・解体的軸は、権力が言語・分類・制度に埋め込まれている構造を暴露し、二項対立そのものを解体しようとします。後期ボードリヤールや一部のカルチュラルスタディーズに代表される肯定的・相対主義的軸は、大きな物語の終焉を受け入れ、断片・多元・差異を肯定的に享受しようとします。

「オールドメディアは権威的で古い、ニューメディアは民主的で自由だ」という言説は、この肯定的軸と構造的に一致しています。既存の権威・中央集権的情報という大きな物語が崩壊し、個人が自律的に情報を選択・発信できる時代が来た——これはリオタールが『ポスト・モダンの条件』で述べた大きな物語の終焉の通俗版として読めます。

しかし批判的軸から見れば、この言説自体が新たな大きな物語です。「ニューメディア=解放」という図式は、プラットフォーム資本にとって都合のよいイデオロギーとして機能しており、フーコー的な権力分析の対象そのものになります。

ポストモダン思想は、オールド/ニュー区分を解体する道具にも、正当化する道具にもなります。この両義性こそが、ポストモダン思想が資本の論理に回収されやすかった構造的理由です。解体・脱構築の道具として始まったものが、消費文化の自己正当化の言語として吸収されていく過程は、1980〜90年代を通じて繰り返し起きた現象でした。

したがって、オールド/ニュー区分は「ポストモダン思想に準ずる」というより、ポストモダン思想の肯定的軸を資本が動員した結果として生まれた言説と見る方が実態に近い。思想が先にあって区分が生まれたのではなく、資本の論理が先にあり、それを正当化する文脈としてポストモダン的語彙が後付けで使われた——という順序です。

4.三つの層

整理すると、「オールドメディア」という区分には三つの層が重なっています。

記述の層では、情報流通の構造的差異を説明するための分析概念として一定の有効性を持ちます。経済の層では、収益・権力構造の違いを議論する際の補助線として機能します。しかし政治の層では、「古い=信頼できない」「新しい=自由」という価値判断を密輸入する道具として運用されています。

この区分を使う人間が、三つの層のどこに立っているかを問うことが、言説を読む上での最初の作業です。そしてその問いは、区分の中身を議論するよりはるかに多くのことを教えてくれます。

言葉は中立ではありません。分類もまた、権力の行為です。

参考文献

本文での登場順に掲げます。

  1. シモーネ・ナターレ「オールドメディアは存在しない」(2016年)
    原題:“There Are No Old Media”/掲載:Journal of Communication Inquiry 40巻4号
  2. マックス・ホルクハイマー、テオドール・W・アドルノ『啓蒙の弁証法』(1947年)
    原題:Dialektik der Aufklärung
  3. ダラス・スマイス「コミュニケーション――西欧マルクス主義の盲点」(1977年)
    原題:“Communications: Blindspot of Western Marxism”/掲載:Canadian Journal of Political and Social Theory 1巻3号
  4. エドワード・ハーマン、ノーム・チョムスキー『同意の製造』(1988年)
    原題:Manufacturing Consent/邦訳『マニュファクチャリング・コンセント』
  5. デヴィッド・ニーボーグ、トーマス・ポエル「文化生産のプラットフォーム化」(2018年)
    原題:“The platformization of cultural production”/掲載:New Media & Society 20巻11号
  6. ニック・スルニチェク『プラットフォーム資本主義』(2016年)
    原題:Platform Capitalism
  7. ジャン=フランソワ・リオタール『ポスト・モダンの条件』(1979年)
    原題:La Condition postmoderne
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