論考
哀しみの変換装置
啄木の言葉は、いかにして歌になったか
目 次
序 盛岡の空に流れる旋律
盛岡市の公式サイトによれば、岩手県盛岡市では毎日午前8時30分、正午、午後6時の3回、市庁舎と盛岡西消防署の屋上から一つのメロディーが流されています。曲名は「春まだ浅く」です。詞は石川啄木、曲は古賀政男によるもので、昭和11年(1936年)の映画『情熱の詩人啄木』のために作られました。
この放送設備は、昭和53年に地元の盛岡不来方ライオンズクラブから市に寄贈されたものです。古賀政男が世を去ったのも、同じ昭和53年でした。明治の詩人の言葉に昭和の作曲家が旋律を与え、その旋律が今も故郷の空を一日に三度めぐっています。
本稿は、この「言葉が旋律に変わる」出来事を手がかりに、石川啄木、古賀政男、谷村新司の三人をつなぐ系譜を考えるものです。三人のあいだに直接の交友はありません。それでも啄木の言葉は、少なくとも二度、大きく姿を変えて歌になりました。一度目は古賀によって外側から旋律を与えられ、二度目は谷村によって内側から咀嚼されています。その変換の違いを追うことで、日本の大衆歌が文学をどう取り込んできたかを読み解きたいと思います。
なお、本稿には筆者の推論が含まれます。資料で確認できる事実と、筆者の解釈とは、本文中でその都度区別して記します。
一 演説が歌になったとき
「演歌」という言葉は、もともと「演説の歌」を意味していました。明治16年(1883年)頃から、自由民権運動の壮士たちが政治や社会への批判を歌詞に込めて街頭で歌うようになります。演説に代わる歌という意味で、これらは「壮士自由演歌」「壮士節」と呼ばれました。演説の場を制限された思想が、歌という形を借りて人々の耳に届けられたのです。
明治20年代後半、自由民権運動が勢いを失うと、壮士の歌も唱歌や軍歌に押されて衰えます。しかし日露戦争の頃、添田唖蝉坊が「ラッパ節」で成功を収め、演歌は再び盛り返しました。唖蝉坊はこの頃から社会主義を信条とし、政治家や特権階級への批判と風刺を歌にして全国を回っています。
ちょうど同じ時代、東京朝日新聞社の校正係として働いていた一人の青年歌人が、社会主義へと傾いていきました。石川啄木です。
明治43年(1910年)、幸徳秋水らが逮捕される大逆事件が起こります。新聞社に勤めていた啄木は、事件に関する記事が一切差し止められたことから、それが権力によって作られた冤罪である可能性が高いと悟っていきました。友人の弁護士・平出修から裁判資料を借りて読み、獄中の幸徳の書簡を写し取り、評論「時代閉塞の現状」を書いています。
唖蝉坊が街頭で歌い、啄木が机上で書き留めた時代の空気は、同じものでした。思想を正面から語ることが難しい時代に、思想は歌や詩へと流れ込んでいきました。
二 禅寺の子の「悲しき玩具」
啄木の社会主義は、最初から確信に満ちたものではありませんでした。明治39年(1906年)、故郷の渋民村にいた啄木は、自分は社会主義者となるには個人の権威を重んじすぎている、という趣旨を日記に書き残しています。
考えが動き始めたのは、北海道を漂泊していた時期です。明治41年(1908年)1月、小樽で社会主義の演説会に足を運んだ啄木は、西川光二郎の演説に深い感銘を受け、社会主義は自分の思想の一部分だと友人に語っています。啄木の思想を動かしたのもまた、一つの「演説」でした。
そして決定的な転機が大逆事件です。啄木はこの事件に衝撃を受けて社会主義思想に近づき、幸徳秋水やクロポトキンの著作を愛読するようになります。明治44年(1911年)1月9日付の友人・瀬川深宛ての手紙では、長いあいだ自分を社会主義者と呼ぶことをためらっていたが今はもうためらわない、と書きました。同じ手紙で啄木は、人類の社会的理想の行き着く先は無政府主義だとも述べています。
その過程で、啄木の短歌に対する考え方も変わっていきました。大逆事件を経た啄木は、短歌を、現実を変えることのできない者の悲しい代償行為とみなすに至ったとされています。歌は現実を動かす道具ではなく、動かせない現実を受け止めるための器になった、と言い換えることができます。
第二歌集『悲しき玩具』は、啄木の死から2か月後の明治45年(1912年)6月20日に刊行されました。書名は、編者の土岐哀果(善麿)が、啄木の歌論の一節「歌は私の悲しい玩具である」から取ったとされています。
ここで、啄木の生まれに目を向けます。啄木は明治19年(1886年)、岩手県日戸村の常光寺に、住職の長男として生まれました。翌年、父が渋民村の宝徳寺の住職となり、一家はそこへ移ります。常光寺も宝徳寺も、曹洞宗の禅寺です。
禅は、煩悩を見つめ、それを手放していく修行を説きます。ところが禅寺に育った啄木の歌は、貧しさや病、望郷や怒りといった煩悩を手放しません。苦悩する自分の姿を、そのまま三行に書き留めています。
筆者はここに、一つの逆説を見ます。煩悩を消し去るのではなく、苦しむ自分を外側から突き放して見つめ、言葉に置くという態度は、禅の正反対であると同時に、どこか禅的な観照にも通じています。これはあくまで筆者の読みですが、啄木の歌が百年を経ても多くの人に届くのは、苦悩を美化も解決もせず、ただ「そこにある」ものとして差し出しているからではないでしょうか。
三 古賀政男――思想ではなく哀しみを運んだ旋律
啄木の死から24年後の昭和11年(1936年)、日活映画『情熱の詩人啄木――ふるさと篇』(熊谷久虎監督)が公開されます。この映画の挿入歌「春まだ浅く」の歌詞には、啄木の短編小説『雲は天才である』に出てくる詩が使われ、古賀政男が曲をつけました。原詩には欠けている箇所があり、映画制作の際に助監督が補作しています。
同じ映画に関連して、古賀は「啄木の唄」も作曲しています。歌は楠木繁夫、レコードはテイチクから出ました。この曲を映画の主題歌とする資料と、挿入歌として作られたとする資料があり、映画の中での扱いまでは確認できていません。歌詞には「東海の小島の磯の白砂に」「石をもて追わるるごとく」という啄木の短歌が、ほぼそのまま組み込まれました。
ここで起きたのは、外側からの変換です。啄木の言葉は映画の題材として選ばれ、原文の形を保ったまま、他者の手で旋律に乗せられました。大衆に届けられたのは、晩年の啄木が抱いた社会への怒りではありません。故郷を追われる悲しみ、病と貧しさの中の望郷、つまり哀しみでした。
その旋律を書いた古賀自身も、単純に「日本的」な作曲家ではありません。古賀は8歳から18歳までを朝鮮で過ごし、15歳で贈られたギターが音楽の道に進むきっかけになりました。その経験が、古賀メロディーにある朝鮮の旋律の影響とされています。青年期にはマンドリンとギターのクラシック音楽を学び、明治大学マンドリン倶楽部の創設にも加わりました。
西洋の撥弦楽器と、朝鮮の旋律と、日本の流行歌が交わる地点から生まれた旋律が、禅寺の子の哀しみを運びました。啄木の言葉は、古賀の手によって、思想の歌ではなく情感の歌として、新しい居場所を得たのです。
四 「演歌」という名の帰還
今日、古賀政男は「演歌」の源流に位置づけられることがあります。しかし活動していた当時の古賀は、「流行歌」の作曲家でした。
音楽学者の輪島裕介は『創られた「日本の心」神話』(2010年)で、現在の「演歌」というジャンルは1960年代に成立したものであり、それ以前の流行歌に遡って当てはめられたと論じています。同書によれば、その背景には1960年安保以降の反体制的な思潮がありました。「アウトロー」や「貧しさ」「不幸」にこそ民衆の真正性があるとする言説の中で、演歌は「日本の心」として語られるようになったといいます。
この議論を本稿の流れに置くと、一つの円が見えてきます。
「演歌」という語は、明治の街頭で思想を伝える歌として生まれました。やがて政治色を失い、人情や悲恋を歌う芸へと変わっていきます。そして1960年代、今度は反体制的な知識人の言説によって、古賀メロディーを含む過去の流行歌が「演歌」の名のもとに呼び戻されました。思想を運ぶ歌として生まれた言葉が、半世紀以上を経て、再び思想の側から意味を与えられたことになります。
古賀が啄木の哀しみに与えた旋律は、啄木の思想そのものを運んだわけではありませんでした。けれども、その旋律の系譜は後の時代に、思想の言葉で語り直されることになったのです。
五 谷村新司――啄木を食べた人
二度目の変換は、昭和55年(1980年)に起こります。谷村新司の「昴」です。
「昴」の歌い出しは、啄木の歌集『悲しき玩具』の冒頭に置かれた二首と似ていると、長く指摘されてきました。目を閉じても何も浮かばず、寂しくてまた目を開けるという歌と、息をするたびに胸の中で凩よりも寂しい音が鳴るという歌です。1990年代半ばにこの点を尋ねた記者に、谷村は、啄木が大好きなのでどこか心の底に残っていたのは事実だと答えています。
大学時代に啄木を「読んだと言うより食べました」と語った、という発言も伝えられています。この言葉は、谷村にとっての啄木が、引用する対象ではなく、身体の一部になった養分だったことを示しています。
ここで起きたのは、内側からの変換です。古賀は啄木の言葉を原文の形で旋律に乗せました。谷村は啄木を一度自分の中に取り込み、自分自身の言葉として作り直しています。多くの聴き手は、啄木の名を知らないまま、啄木の寂しさを受け取ってきました。前者が「文学を歌にする」営みだとすれば、後者は「文学が歌になる」営みだと言えます。
筆者は、この主体の移り変わりに、大衆歌の作り方そのものの変化が重なっていると考えます。作詞家、作曲家、歌手が分業した時代には、文学は外から持ち込まれる素材でした。シンガーソングライターの時代になると、文学は作り手の内面を通り、その人の声として出てくるようになります。
もう一つ、見逃せない事実があります。「昴」の下敷きとされる二首は、啄木の自筆ノートには含まれていませんでした。啄木の死後、歌集を編んだ土岐哀果が、紙片に書かれていたものを見つけて巻頭に加えたとされています。遺稿の余白に残された歌が、68年後に国民的な歌の芯になったことになります。
さらに、啄木は明治42年(1909年)創刊の文芸雑誌『スバル』の創刊時の編集兼発行人を務めていました。誌名の漢字表記は「昴」です。谷村がこの雑誌を意識して曲名をつけたことを示す資料はなく、これは偶然の一致と見るべきでしょう。それでも、啄木の名と結びついた「昴」という言葉が、時を隔てて再び歌の題になったことには、不思議な縁を感じます。
六 上海の教室へ
谷村はキャリアの後半、活動の場を中国の教室へと移しました。
谷村は2000年代の初め、30数年続けてきた活動をいったんすべて白紙に戻しています。白紙に戻した時期は、本人の発言に2002年とするものと2003年とするものの両方が残っています。その時期の2003年、上海音楽学院から教授就任の依頼が届きます。谷村はこれを引き受け、2004年3月に常任教授に就任しました。以後、毎月1週間を上海で過ごし、授業を続けています。同学院で初めての外国人教授だったとされます。
クラシックと民族音楽を学ぶことが主流の中国の音楽大学で、谷村は学生に自由に詩を書かせ、さまざまなジャンルの音楽を紹介しました。中国との縁は、1981年の北京公演にさかのぼります。1984年には香港の譚詠麟、韓国の趙容弼とともに、音楽による平和を掲げる「PAX MUSICA」を始めています。
ここから先は、筆者の推論です。
晩年の啄木が社会主義に見たのは、国家や体制の内側に閉じ込められた人間が、その外へ出ていく可能性だったのではないでしょうか。啄木の関心はクロポトキンなどのアナキズムにも及んでおり、その思想を現代中国の政治体制と同じものとみることはできません。ですから、啄木の思想内容が谷村に受け継がれたとは言えません。
それでも、歌を国境や体制の外へ運ぼうとする志向という一点で見れば、そこに連続を見ることはできると筆者は考えます。学生に自分の詩を書かせるという谷村の授業は、借り物ではない自分の言葉で歌うことを求めるものでした。それは、自分の苦悩をそのまま三行に書き留めた啄木の態度とも響き合っています。
付け加えれば、古賀政男もまた、音楽を国の外へ運んだ人でした。昭和13年には外務省の音楽文化親善使節として世界各地を訪れ、昭和49年には広島平和音楽祭を開催しています。朝鮮で育った少年が西洋の楽器で日本の流行歌を書き、やがて音楽の使節として世界を巡りました。谷村が上海の教室でしたことは、方向こそ違え、その延長線上にあるように筆者には見えます。
結 円環
令和6年(2024年)、谷村新司は、古賀政男の名を冠する古賀政男音楽博物館の「大衆音楽の殿堂」に顕彰されました。前年の2023年に、谷村は74歳で世を去っています。啄木の言葉に外から旋律を与えた作曲家の名のもとに、啄木を内から食べた歌い手が迎え入れられたことになります。
ここまでの流れを振り返ります。明治の壮士は演説を歌に変えました。同じ時代の空気の中で、禅寺に育った啄木は、一つの演説に心を動かされ、やがて変えられない現実を受け止める器として歌を詠みました。古賀はその歌に、西洋と朝鮮と日本が交わる旋律を与え、哀しみとして大衆に届けました。1960年代には、その旋律の系譜が「演歌」の名で思想の側から呼び戻されました。そして谷村は、啄木を自分の言葉として作り直し、やがてその歌を国境の外の教室へと運びました。
筆者には、これが一本の直線ではなく、円を描いているように見えます。思想が歌になり、歌が情感になり、情感がまた思想の言葉で語られ、やがて国境を越えていく。この円の中心にあるのは、苦悩を手放さずに、ただ見つめるという啄木の態度だったのではないでしょうか。
この円が閉じているのか、それともまだ開いているのかは、わかりません。市の案内によれば、盛岡の空には正午になると「春まだ浅く」が流れます。その旋律を耳にする人の多くは、詞が啄木のものであることも、曲が古賀のものであることも知らないかもしれません。それでも哀しみは、誰かの耳から次の誰かの声へと渡っていきます。次にその言葉を歌に変えるのが誰なのか、その問いを開いたまま、本稿を終えたいと思います。
参考文献
- 盛岡市公式サイト(市庁舎等から放送されるメロディー「春まだ浅く」に関する案内)
- 石川啄木『悲しき玩具』(土岐哀果編、1912年)
- 輪島裕介『創られた「日本の心」神話』(2010年)