エッセイ
散る花を見届ける人、咲かせる人
唐木順三と宇野千代
十月も終わりに近づき、夜の風に冷たいものが混じるようになりました。
飛花落葉という四文字を、この季節になると思い出します。花は飛び、葉は落ちる。世のものはみな移ろうという意味の言葉です。夜の仕事場で手を止めていると、どこかで葉が枝を離れていく気配がします。音と呼べるほどのものではありません。それでも、何かが去っていく時間というのは、確かにあるのです。
今夜は二人の人のことを考えていました。唐木順三と宇野千代。明治の後半、わずか六つ違いで生まれ、ほぼ同じ時代の空気を吸いながら、まるで違う方角を向いて生きた二人です。
唐木順三は信州、伊那谷の生まれです。京都で哲学を学び、若い頃は郷里や大陸で教壇に立ちました。同郷の後輩が出版社を興すときにはその傍らに立ち、表に名を掲げるよりも、言葉の通る道を整える側にまわった人です。
彼が生涯をかけて見つめたのは、散っていくものでした。世を離れた歌詠みや、庵に身を隠した人々。役に立たぬことを自ら選んだ者たちの系譜をたどり、やがて無常という一語の奥底へ、静かに降りていきました。
無常と聞くと、人は嘆きを思い浮かべます。けれども唐木の眼差しには、嘆きよりも、澄んだ覚悟のようなものがありました。花が散ること、葉が落ちることを、終わりとしてではなく、この世の本来の姿として受けとめる。そこに立つには強さが要ります。声を荒げる強さではありません。黙って見届ける強さです。
言葉を正確に使えないことは、考えそのものが曖昧であることだと、彼は信じていたようです。晩年、病を得てなお、科学と人間の責任について書き残そうとしました。散るものを見つめ続けた人が、最後まで手放さなかったのは、言葉の背筋でした。
山国の秋は早く来て、早く去ります。冬の長い土地に育った人は、ものの終わりを急がずに待つことを、身体で覚えるのかもしれません。唐木の文章には、どこか雪を待つ谷の静けさがあります。華やかな賛辞を集める書き手ではありませんでしたが、彼の書いたものを探しに来る人は、今も絶えません。古書の世界にいると、そういう本の在り方がよくわかります。声高ではない本ほど、長く人の手を渡っていくものです。
宇野千代は、山口の岩国に生まれました。十四で嫁ぎ、十日ほどで家に戻ったといいます。それが始まりでした。
恋をし、別れ、また恋をする。住まいを移し、家を建て、着物の柄を描き、雑誌をつくり、会社を傾かせ、それでも筆を置かなかった。二十五年連れ添った人との別れさえ、彼女は小説に変えてみせました。自分の哀しみの音に、じっと耳を澄ましながら。
彼女を奔放と呼ぶ人がいます。けれど私には、宇野千代はむしろ、ひどく律儀な人だったように思えます。一つの小説を十年かけて仕上げた人です。気まぐれでできることではありません。彼女はただ、昨日にとどまらなかった。それだけのことなのだと思います。
人は別れのたびに、少しずつ何かを失っていきます。宇野も同じだったはずです。ただ彼女は、失ったものを数える代わりに、次に何をするかを考えた。哀しみを持たない人だったのではありません。哀しみを抱えたまま朝を迎え、また書きはじめる。その繰り返しを、何十年も続けた人なのだと思います。華やかな噂ばかりが語られがちですが、その奥には、驚くほど地道な日々がありました。
七十に手の届く頃、彼女は岐阜の山あいで、枯れかけた一本の老いた桜に出会います。千年を超えて生きてきた木でした。もう一度この木に花を咲かせられないものかと考え、人を動かし、その再生に力を尽くしました。
散るものを見届けた人と、散りかけたものに、もう一度花をつけさせようとした人。
唐木が見ていたのは、花の去っていく後ろ姿でした。宇野が見ていたのは、まだ来ない春でした。どちらかが正しいということではありません。花というものには、もとからその両方が含まれているのでしょう。咲くことは散ることの始まりであり、散ることは、次に咲くための静けさでもあります。
唐木は七十六で世を去りました。宇野は九十八まで生き、晩年になっても、死をまだ遠いもののように受けとめていたといいます。
一方は身を引くことで、世界の深さに触れました。一方は前へ出ることで、世界の広さに触れました。退くことにも、進むことにも、同じだけの勇気が要る。長く仕事を続けてきて、私はようやく、そのことが少しわかるようになった気がしています。
夜が更けてきました。風は先ほどより、いくらか強くなったようです。どこかでまた一枚、葉が枝を離れたのかもしれません。
その同じ枝の奥で、来年の春の芽が、もう小さく固く、眠っているはずです。